“
ところで、ぼくは将来小説を書いてお金をもらいたいと思っている。
だからという訳ではないけど、あそこで嘘つきの反省文や誓約書を書いていたら、ぼくは徐々に小説(だけじゃなく、その他の創作すべて、ぼくの作りたいようなものに関して)を書くための精神的な弾力を失い、たおれてしまうだろう。だから、これでよかったんだと思う。
本当に、誰にも認められないとは思うけど、自分の頭の中では必要な経験だったはずだ。
”“
「団塊ジュニア世代」と呼ばれる現代の35歳。10年前ならば、35歳といえば家庭を持ち、会社で責任あるポストを任され、社会を担っていくはずの存在でした。それが現在では低所得化、未婚化、雇用の非正規化など、不景気のあおりを正面から受けています。本書はNHK「あすの日本」プロジェクトとして放映された内容を再構築したもの。1万人の35歳のアンケートデータから浮き彫りになる、35歳の「現在」をリアルに伝えています。
たとえば、年収。1997年には平均年収が500万~600万円だったのが、現在は300万円台。10年前よりも200万円は安くなっているのがわかります。35歳時点での出生率は0.86、また正社員の69%の人が、会社に対して不安に思うことについて「収入が増えないのではないか」と回答しています。
今のままでも十分目を背けたくなりますが、この先20年後の日本は「ゼロ成長」「消費税18%」「医療費の自己負担額は現在の2倍」「失業率10%超」「年金30%カット」など、想像したくもない社会になってしまう可能性があるのだそうです。現在、日本の失業率は5.1%。15~24歳の若者に至っては失業率9.9%と、すでにその予兆は始まっています。
”“
仲俣 例えば……、紙の本をタダでばら撒くっていうのは今のところ、広告を掲載できない書籍ではできないですけど、雑誌ならばすでにモデルがある。ようするに『R25』ですが、あれはタダで配っても広告収入で担保できる。読まれずに捨てられようが、とりあえずあちこちに置いてある、ということ自体によって存在をアピールできるし、しかもたまたま読んでみたら、「まあまあ面白いな」っていうので十分なんですね。
それと同じようなことが、ネット上で可能かというと、まだちょっとわからないですけど、ただ僕の感覚で言うと、雑誌や本で文章を書いてるプロの人がネット上でも書いていると、それらに対して読者のほうが構えというか、著作権があるから、とか、勝手に使っちゃいけないんじゃないかとか、そういう怯えにも似たものがまだあると思うんです。モラリスティックに「著作権侵害だ!」とかうるさく言う人もいるんで、そういうときに無駄な論争を省くためにも、「この文章はどう使ってもいいよ」という風に、立場をはっきりさせたものがネット上にいろいろあるといいな、と思うんです。
ネット上でテキストを書けば、つっこまれるかもしれないし、叩かれるかもしれない。逆に、すごくいいと評価してくれるかもしれない。でも、音楽や映像と違って、テキストっていうのは、よほどのものでないと、そんなに二次利用できるものでもないでしょう。翻訳のような場合は、よりよい訳に直してくれるということもあるだろうけど、そういう風に、テキストが二次利用されて流通してくっていうことは、これまで紙の世界ではあんまりなかったと思うんです。 学者の世界の場合は、ひとの論文を引用するのは当たり前だし、評論や書評でも引用されるけど、ごく普通の人にとっては、本を引用するって経験はほとんどなかったと思うんです。
inf. なかった。確かにありませんでしたね。
仲俣 でも、本の一部をちょっと引用したり、場合によっては翻訳にちょっと手を加えることで、もとのテキストのもってたポテンシャルが高まって、社会的により有用に使われるということはありうるわけで、そういうことというのは、インターネット以前にはあんまりなかったことだと思います。もちろん、マンガの場合は同人誌があるけれど、小説のテキストを小説としてパロディにしたようなものというのは、マンガほどはなかったんだと思うんですよ。
だから、いまネット上でテキストでの流通に関していえば、それがいいことか悪いことかについて論争はあるのかもしれないけれど、少なくとも、分量さえ気をつければ、引用するのもダメってことはもうないわけですよ。
inf. はい。
仲俣 ブログは「引用の束」でしょう。意識してバラ撒かなくても、公開の「場」に出してけば勝手にリンクやトラックバックされて、引用し、引用されあうことになる。それによって見てくれる人は見てくれるだろうっていう、いまの質問にあったようなモデルに、すでになっている。そうすると、次のフェーズはネットに公開されていないテキスト、つまり紙の本のコンテンツということになる。僕はもっと、みんな紙の本からの引用をした方がいいんじゃないかと思うんです。
”ブログは「引用の束」 (via nakano)
ブログで引用がなぜ成立できるのかをテクノロジー抜きで考えても意味がないと思うけどなあ。
(via mitaimon) いいこという。それ本当感じます。それは技術でしかないでしょ? とか言われちゃうんだよなぁー。そこが情報の価値とすごく密接なのに。 (via yamato) 2009-02-21 (via gkojay) (via ryusoul)
当該インタビューに参加した人なので一応補足でツッコミ。「ブログで引用がなぜ成立できるのかをテクノロジー抜きで考えて」はいないですよ。技術的にそれが可能になりました。じゃあこれからどうなる?という内容のインタビューでした。
で、このインタビューが行われたのは2006年です。まだTumblrもTwitterも日本では話題になって無かったころのお話です。
(via pdl2h)
インタビュアーだったinf.です。2006年当時はTumblrもTwitterも日本では話題になって無くて、web2.0華やかなりし頃。ロングテールが喧伝され、mixiが流行し、新書ブームの只中でした。
技術と情報の価値は密接なのは仰るとおりだと思っています。しかし、より詳細にいえば技術そのものというよりも、技術によって実現される環境(昨今の用法に従えば「アーキテクチャ」と呼ぶのも構わないでしょう)と情報の価値が関係すると私は考えます。
例えば、Tamblooによって格段にreblogがしやすくなり投稿が増えたとか、Autopagerizeを導入して閲覧スピードが向上した結果、情報接取方法が導入以前とは異なる態様になった、と感じる方も多いのではないでしょうか。また、ダシュボードに流れてきた文章についてQuote部分 だけ見て(その前後の文脈は参照せず)コメントをされるのは、このtumblrというウェブサービスの環境に影響された振る舞いだといえます(ああ、Quote元を参照しなければならないとか、文脈を踏まえなければならないという主張ではないですよ。あなたの行動を制約・規定する要素となっているという意味です。あしからず。)
このインタビューではアプリケーション・レベルの話もしていますが、より下位レイヤーが実現したことに関わる驚きととまどい、そして振る舞いや市場の変化についても前提とされています。
しかし、テッド・ネルソンのザナドゥの方に共感を覚えていた私が、tumblrを楽しんでいるのですから、思えば短期間で遠くに来たものですね。
(via inf)
(via pdl2h) (via harunoriyukamu)
(via atomit) (via nemoi) (via atorioum) (via vmconverter) (via yamato) (via gkojax)
2010年は時期が来たとみるべきか。うーむ。
(via tnoma)
“
コムデギャルソンが創設から今年で40年を迎えた。常に新しい創造性を打ち出すことで前衛派の旗手としての役割も果たし続けている。長引く不況で一部の低価格ブランドを除いて売り上げが低迷する中、コムデギャルソンはその反骨精神をあえて示すかのような策を次々と打っている。突破口は開けるのか? デザイナー兼経営者としてブランドを率いる川久保玲に聞いた。(編集委員・高橋牧子)
――服を売らないアートスペースを大阪で8月に、博物館のような店を東京で11月に開いた。
服以外のものにも少し考えていることをプラスして「ああ、ここの服はこういうものなんだ」と思ってもらえる場にしたかったのです。遠回りですが服を買うのにはそんな回路や順番があってもいいと思う。私にとって表現の場や方法論の中で服はその一部にすぎず、店もその一つなのです。効率的に売ることだけを考えているとファッションの先がどんどん見えなくなる。そういう状況の中で、1人であがいている感じですが。
――最近の安さ、早さを求める傾向への抵抗でも?
若い人たちが考えたり作ったりする楽しみや必要性を忘れていくのが心配なのです。たとえば、ジーンズ1本が何百円なんてありえない。どこかの工程で誰かが泣いているかもしれないのに、安い服を着ていていいのか。いい物には人の手も時間も努力も必要だからどうしても高くなる。いい物は高いという価値観も残って欲しいのです。
――H&Mやルイ・ヴィトンとのコラボや、価格を抑えた「エマージェンシーブランド」と、ハッとするような企画を次々と。
何かいつも、新しいこと、強いものをと思っていて、それを続けていないと次が生まれてこないのです。自分が活動的に何か新しい物を生み出せば、それについて何かを感じたり、元気が出たりする方もいらっしゃるでしょうし、それがこの世の中を変えていくことに少しでもつながるならと思うからです。
――レディースとメンズだけでも年4回の新作発表。その創作の最初の手がかりは?
ほとんど何もない、何か海の中の一つの石を探すような感じですね。ずっと考えているうちに何かこうぽつんぽつんと浮かんできて、ある日それがフォーカスされてテーマらしくなるのがパリ・コレのほんの2、3週間前。いつもその途中で3回ほど、どうしようもなく不安になる。でも誰でも、何を作る人でも同じですよね。そう思ってなんとか耐えています。
――ジュンヤ・ワタナベとタオを含めた3ブランドの共存は、パリ・コレでもまれなこと。
3人ともが「前回よりも少しでも先に」と思って、同じ会社の中でそれぞれ自分と戦っていることがエネルギーになっているのかもしれません。でも、創造性で頑張り過ぎると売れなくなる、という微妙な問題もあるし……。結果的に支え合っていることで強くなれるとは思っていますけれど。
――不況下で経営難に陥るブランドと違う点とは。
日々数字のチェックをしていて、何か手当ての必要を感じたらすぐに手を打つ。その早さと、一方で目の前のことだけでなく長いサイクルで対応しなければならないことを常に考えています。売り上げにはプラスになってもコムデギャルソンらしくないことはしない、というような。
――反骨精神は、何に対して?
自由に生きていきたい、皆が幸福でなければならないと思っても、そうできない世の中の仕組みがあります。それに、人間はそれぞれ生まれてきても決して皆同じじゃないし、同じものをもらってないわけですよね。そういうどうにもならない不平等の中でも、自分は自分だって頑張って生きていかなきゃならない辛(つら)さがある。不条理って言ったら言い過ぎかしらね。子供の頃からずっとそういうものに怒りを感じてきました。その気持ちを今後も持ち続けたい。
――いま社会が大きく変わる中で、正統に対する前衛的な創造ということの意味も変わってくるのでは?
私のしていることはずっと同じです。周りが少しずつ変わって、その時々の社会やムーブメントに合わせて語られてきただけ。たとえば、私は80年代からライダースジャケットを着ていましたし、いつも同じスタイル。私自身の在りようや気持ちの中は何も変わっていないし、これからも変えるつもりはありません。
”asahi.com(朝日新聞社):いい物は高いという価値観も… 川久保玲 - 話題 - ファッション&スタイル (via takadat) (via komahiko) (via mnak) (via takaakik) (via petapeta)





